「創造的破壊」

2011年この経済書がおすすめベスト10、読んだらがっくりベスト5
http://real-japan.org/2011/12/23/760/

を見て、気になったので読んでみた。

 全般的に、手軽に読める割に内容の深い良書との印象を受けた。
 反グローバリゼーション主義者の大半が、自分の好ましい文化を周りや未来に押し付けようとしているだけで、自分の都合の良いときだけ反グローバリズムを唱えているという点については同意するし、地域間の文化的多様性よりも、特定の地域内の文化的多様性の方を重視すべきとの議論もその通りだと思う。ただ、問題はそんなに単純でないように見える。特に以下の二点が気になった。

  • 粗放的消費と集約的消費

 まず、粗放的消費とは典型的に観光地の旅行客に見られるような、ろくに品質に注意を払うこともなく、何となくそれっぽいものを直感的に購入するタイプの消費のことである。グローバル化の文化的問題は、結局この粗放的消費の拡大に帰することができる。

かれら(グローバリゼーションの批判者)が恐れているのは、全ての人が不注意な『文化の旅行者』となり、品質についてはまったく無頓着なままに、多種多様なグローバル商品をでたらめに手に取るという事態である。
「創造的破壊」より。

この場合、生産者の品質へのインセンティブは失われ、それまで文化と呼ばれていたような高度な生産物は作られなくなってしまう。

 ただ、実際には人々は集約的消費も行うので、粗放的消費の拡大は文化の破壊には繋がらないと筆者は指摘する。

行き当たりばったりにせよ、幅広い商品を試してくれるチャネルサーファーは、金銭面で多様性を支える。これが多様性の増大につながり、趣味人たちに対しても、多様で魅力的なモニタリングの機会が保持される。

 ここで、チャネルサーファーとは粗放的消費のみを行う人の総称で、趣味人は集約的消費の担い手のことである。
つまり、チャネルサーファーのランダムな消費により生産者の収入、及び十分な市場規模が保証されるので、趣味人はその中で集約的消費を行うことが可能となり、趣味人の消費は生産者の余剰利益へと繋がるので、高品質へのインセンティブは保たれる。

 本文中の議論は概ね上のような内容なのだが、どうもこれは実情と対応していない気がする。
 特に問題なのは多分チャネルサーファーは実際民放各局をサーフィングするだけでケーブルテレビのチャンネルまではチェックしないということ、あるいは「文化の旅行者」は空港の土産屋で買い物を済ませてしまうことで、彼らの行動は十分にランダムでない。
 これは、次に挙げる時間的多様性の話とも関係していて、問題は人々が移り気なことではなくて、「動物的」に特定の刺激に対して中毒的にロックされていることで、ある特定の嗜好をもった集団が十分な購買力を持って襲いかかってきた場合、生産者としてはそれに適応するしかない。このことは多くの場合文化的衰退につながる。MTV視聴者の好みに合わせた80年代ロックがいかに不毛であったか、最近美術館でよく見られる暇な年金生活者向けの企画展示がどれだけナンセンスか、あるいは新大久保の美味い韓国料理屋がいつの間にか韓流ファンの巣窟になっていた時の衝撃を考えば、これはほとんど自明に見える。*1

  • 空間的多様性と時間的多様性

 この対立概念は本の終わり付近で突然出てくるのだが、よくよく考えるに興味深い。
 空間的多様性とは、一般に文化の多様性として言及される、ある特定の時点で国家内/国家間にどれだけ文化的多様性があるかという話。一方、時間的多様性とは、時間の変化に従ってどれだけ文化が移ろいゆくかという話。空間的多様性の支持者は、ある特定の文化を擁護するばかりに、本来廃れていく運命にある文化まで過剰に保護してしまい、結果的に時間的多様性を犠牲にしていると、筆者は批判している。

 これは深くて微妙な問題で、まず集団としての僕らは空間的多様性に対して十分な影響力を持っているが、時間的多様性に対する操作能力は限定的であるということ、および時間的多様性を客観的に評価する指標が存在しないことを考えるに、時間的な多様性は空間的なそれにくらべて重要度が低いように思える。
 もうひとつ、前節との関連で言うと、世の中には飽きっぽく移り気な時間的多様性の擁護者と、自分の属する文化のもたらす典型的な刺激に対して中毒状態に陥っている、不可避的な時間的多様性への反抗者がいて、一般に人は両方の性質を併せ持っている。また、一般に人は若い頃は前者で年を取ると後者の傾向が強くなる。

 どれが荒廃が不可避な文化で、どれが保護すべきものなのかの判断は難しくて、結局最終的な決断は市場にゆだねるしかない。このとき、市場における時間的多様性の擁護者と空間派とのバランスが重要になってくる。
 さて現状では、少なくとも現代日本の状況を鑑みるに、このバランスは激しく後者に傾いている。一般に不況期には文化が活性化するのが相場なのだけれども、失われた二十年の間の日本の文化的状況が*2パッとしないのは、この時間的多様性があまりにも蔑ろにされているためではないだろうか。

 文化がなにがしかの前進を遂げているように見えるのは、テクノロジーの進歩ともう一つ「人は飽きる」というというのが理由として挙げられると思う。時間的多様性というミームについてはもう少し考えてみたい。

*1:隣にパチンコ屋が出来たばかりに客層も従業員の国籍も変わった牛丼屋や、ワンピースブームを受けていつの間にか海賊船になっていた観光地の遊覧船なんかもその一例として挙げられると思う。

*2:僕から見て