ずぼら生活の7つのポイント

ずぼらな俺が4年間の一人暮らしでたどり着いた部屋作り&暮らし方
http://lifehack2ch.com/?p=21

ずぼらであることには僕も自信があるので。

1,浴室乾燥機付きの部屋を選ぶ。
洗濯物をベランダにまで運ぶのが大変だし、冬場は部屋とベランダを行き来するのは寒いし、雨が降ってきたらせっかく洗濯したのが台無しになってしまうので、ベランダに洗濯物を干すのはずぼらな人間にとって心が折れるほど面倒。
浴室乾燥機さえあればこうした苦悩から逃れることが可能となる。しかも、冬場は浴室暖房としても利用できるので、一挙両得である。

2,クイックルワイパーの横幅より狭いデッドスペースは作らない。
ずぼら生活では床掃除は当然クイックルワイパーのみ。
しかし、クイックルワイパーの横幅より狭いスペースは掃除が出来なくなってしまうので、家具を配置する段階でそれよりも狭いデッドスペースを作らないようにすることが肝要である。例えば、冷蔵庫を置くときは、冷蔵庫置き場の片方の壁にくっ付けて配置すると反対側に単位クイックルワイパー分の隙間ができ、手軽に掃除が可能となるのでほこりが溜まりにくくなる。

3,洋服はハンガー + スチールラックで収納。
よほどクローゼットが大きいか、あるいは洋服の数が少ないかの場合を除いて、ハンガーのみで洋服を収納するのは不可能となる。しかし、いちいち洋服を畳んで収納するのは面倒。そこでお勧めなのは、洋服屋にあるような一段の幅が狭い開放型のスチールラックに洋服を並べて収納する方法である。特にカットソーなどは、適当に折り畳んで放り込んでおけば、取り出すときも一目瞭然で便利。それに見栄えも悪くない。

4,ゴミ箱は使わない。
ゴミはスーパーの袋(または指定のゴミ袋)に溜めるようにして、ゴミ箱は使わない。特にそれで不便することはないし、衛生的なので。

5,掃除は週一。洗濯は週二。
休日を含め明るい間は基本的に家にいない生活を送っていれば、掃除は週一で十分。これで今まで名前を言ってはいけないあの虫に遭遇したことはないし、カビなどが発生したこともない。風呂掃除もシャワーのみなら週一で十分(ただし、入浴後浴室乾燥をまわすのを忘れないこと)。洗濯も週二で十分かと。

6,自炊は基本的にしない。
これについては異論の余地があるが、僕は反自炊派である。もちろんこれは食堂や社食が夜間も利用できることを前提としていて、外食中心の食生活を支持しているわけではない。食堂の規模にもよるけれど、シダックスなんかの大手がやっていて会社や大学の資金援助が入っている食堂については、価格、栄養バランス、味、メニューのバラエティ、そして手間の全ての面で、自炊よりも優れていると思う。
ただし、反自炊原理主義に傾倒してしまうのも危険で、たまには家でも食事をするべきである。とは言えやはり面倒なので、米は時間のあるときにまとめて炊いて冷凍庫に蓄えておいて、レトルトカレーやパスタソースを買い置きしておくと良い。

7,タンパク質の摂取を心掛ける。
よく一人暮らしだと野菜が不足すると言われるが、食堂中心の食生活を送っている限りこれには当てはまらないし、そもそも多少ビタミンの摂取量が減ったところで直ちに健康への被害があるとは思えない。反対に不足すると困るのがタンパク質である。自炊をするとタンパク質不足に陥りやすいし、外食中心の場合でもメニューによっては炭水化物過多となって、タンパク質が不足する。この問題について対応策は簡単で、毎朝牛乳を飲めば大抵の場合何とかなる。プロテインを溶かして飲むとなお良し。ついでに筋トレもするとさらに良し。
あと、苦いもの・固いもの・生モノなども一人暮らしだと摂取する機会が減る。それによって健康が損なわれることは特にはないが、意識的に食べるように心掛けると良いと思う。


もちろん上に挙げたような生活は僕が若くて健康だから可能なのであって、そう長続きしないことは分かっている。ただ、自活なんて所詮その程度であるというのを説明したかったので。

首都直下型地震の予想発生確率のニュース

M7級首都直下地震、4年内70%…東大地震
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120122-OYT1T00800.htm

首都直下型地震の発生確率のニュースについて今朝からずっと頭に引っかかっている。もちろん、今回の予測をどこまで真剣に捉えるべきか現状では分からないけれど、それを含めてもなお非常に大きなリスクであることは確か。
 まず、実際にどの程度のリスクなのか交通事故と比較してみる。
 地震は一度起きたらしばらくは起きないので、4年で70%だと一年以内で17.5%、一ヶ月以内で1.5%、24時間以内に起こる確率は0.05%となる。政府予測によれば首都直下型地震の予想死亡者数は最大で1万人なので、今後24時間以内に地震が起きてそれにより死ぬ確率はワーストケースで0.00005%。
 それに対して、平均的な日本人が今後24時間以内に交通事故に巻き込まれる確率は0.003%、それにより死亡する確率は0.00003%。
したがって、純粋に生命リスクで考えるに現状では交通事故よりちょっと危ない程度である。実際に人口10万人当たりの原因別死亡者数を見るに、自殺24人、交通事故9人に対し、地震5人(阪神淡路大震災の起きた95年のデータ)であり、上の予想と対応している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E4%BA%8B%E6%95%85

 しかし、地震のリスクは死亡リスクだけではなく、負傷、火災、家屋倒壊、インフラの壊滅など広範囲に及び、一度地震が起これば少なくとも数ヶ月は正常な生活を送ることが不可能となる。なによりも阪神淡路大震災東日本大震災とを思い起こすにあんな悲劇がまたも繰り返されるのは何としてでも避けたい。
 ただ実際問題として東京脱出は難しいというのも事実。まず情報が不確かだし、上述の通り死亡リスクはあまり高くはないので、行動に出る障壁が高い。加えてどうしても「多数派同調バイアス」と「正常性バイアス」とがはたらいてしまう。
http://www.bo-sai.co.jp/bias.htm

 僕個人としてもとりあえず、複数のソースから直下型地震の発生確率が異常に高い水準であることが確認できるまでは様子見としたい。でも、リスクの存在が明示的に示されている以上、東京にとどまることは自己責任となるのではないだろうか。もちろん、政治的・道徳的観点からするに見捨てられることはあり得ないが、日本の地方や国際社会に十分な余力があるとも思えない。それに何もせずにXデーを待つだけというのは馬鹿らしいわけで。

「創造的破壊」

2011年この経済書がおすすめベスト10、読んだらがっくりベスト5
http://real-japan.org/2011/12/23/760/

を見て、気になったので読んでみた。

 全般的に、手軽に読める割に内容の深い良書との印象を受けた。
 反グローバリゼーション主義者の大半が、自分の好ましい文化を周りや未来に押し付けようとしているだけで、自分の都合の良いときだけ反グローバリズムを唱えているという点については同意するし、地域間の文化的多様性よりも、特定の地域内の文化的多様性の方を重視すべきとの議論もその通りだと思う。ただ、問題はそんなに単純でないように見える。特に以下の二点が気になった。

  • 粗放的消費と集約的消費

 まず、粗放的消費とは典型的に観光地の旅行客に見られるような、ろくに品質に注意を払うこともなく、何となくそれっぽいものを直感的に購入するタイプの消費のことである。グローバル化の文化的問題は、結局この粗放的消費の拡大に帰することができる。

かれら(グローバリゼーションの批判者)が恐れているのは、全ての人が不注意な『文化の旅行者』となり、品質についてはまったく無頓着なままに、多種多様なグローバル商品をでたらめに手に取るという事態である。
「創造的破壊」より。

この場合、生産者の品質へのインセンティブは失われ、それまで文化と呼ばれていたような高度な生産物は作られなくなってしまう。

 ただ、実際には人々は集約的消費も行うので、粗放的消費の拡大は文化の破壊には繋がらないと筆者は指摘する。

行き当たりばったりにせよ、幅広い商品を試してくれるチャネルサーファーは、金銭面で多様性を支える。これが多様性の増大につながり、趣味人たちに対しても、多様で魅力的なモニタリングの機会が保持される。

 ここで、チャネルサーファーとは粗放的消費のみを行う人の総称で、趣味人は集約的消費の担い手のことである。
つまり、チャネルサーファーのランダムな消費により生産者の収入、及び十分な市場規模が保証されるので、趣味人はその中で集約的消費を行うことが可能となり、趣味人の消費は生産者の余剰利益へと繋がるので、高品質へのインセンティブは保たれる。

 本文中の議論は概ね上のような内容なのだが、どうもこれは実情と対応していない気がする。
 特に問題なのは多分チャネルサーファーは実際民放各局をサーフィングするだけでケーブルテレビのチャンネルまではチェックしないということ、あるいは「文化の旅行者」は空港の土産屋で買い物を済ませてしまうことで、彼らの行動は十分にランダムでない。
 これは、次に挙げる時間的多様性の話とも関係していて、問題は人々が移り気なことではなくて、「動物的」に特定の刺激に対して中毒的にロックされていることで、ある特定の嗜好をもった集団が十分な購買力を持って襲いかかってきた場合、生産者としてはそれに適応するしかない。このことは多くの場合文化的衰退につながる。MTV視聴者の好みに合わせた80年代ロックがいかに不毛であったか、最近美術館でよく見られる暇な年金生活者向けの企画展示がどれだけナンセンスか、あるいは新大久保の美味い韓国料理屋がいつの間にか韓流ファンの巣窟になっていた時の衝撃を考えば、これはほとんど自明に見える。*1

  • 空間的多様性と時間的多様性

 この対立概念は本の終わり付近で突然出てくるのだが、よくよく考えるに興味深い。
 空間的多様性とは、一般に文化の多様性として言及される、ある特定の時点で国家内/国家間にどれだけ文化的多様性があるかという話。一方、時間的多様性とは、時間の変化に従ってどれだけ文化が移ろいゆくかという話。空間的多様性の支持者は、ある特定の文化を擁護するばかりに、本来廃れていく運命にある文化まで過剰に保護してしまい、結果的に時間的多様性を犠牲にしていると、筆者は批判している。

 これは深くて微妙な問題で、まず集団としての僕らは空間的多様性に対して十分な影響力を持っているが、時間的多様性に対する操作能力は限定的であるということ、および時間的多様性を客観的に評価する指標が存在しないことを考えるに、時間的な多様性は空間的なそれにくらべて重要度が低いように思える。
 もうひとつ、前節との関連で言うと、世の中には飽きっぽく移り気な時間的多様性の擁護者と、自分の属する文化のもたらす典型的な刺激に対して中毒状態に陥っている、不可避的な時間的多様性への反抗者がいて、一般に人は両方の性質を併せ持っている。また、一般に人は若い頃は前者で年を取ると後者の傾向が強くなる。

 どれが荒廃が不可避な文化で、どれが保護すべきものなのかの判断は難しくて、結局最終的な決断は市場にゆだねるしかない。このとき、市場における時間的多様性の擁護者と空間派とのバランスが重要になってくる。
 さて現状では、少なくとも現代日本の状況を鑑みるに、このバランスは激しく後者に傾いている。一般に不況期には文化が活性化するのが相場なのだけれども、失われた二十年の間の日本の文化的状況が*2パッとしないのは、この時間的多様性があまりにも蔑ろにされているためではないだろうか。

 文化がなにがしかの前進を遂げているように見えるのは、テクノロジーの進歩ともう一つ「人は飽きる」というというのが理由として挙げられると思う。時間的多様性というミームについてはもう少し考えてみたい。

*1:隣にパチンコ屋が出来たばかりに客層も従業員の国籍も変わった牛丼屋や、ワンピースブームを受けていつの間にか海賊船になっていた観光地の遊覧船なんかもその一例として挙げられると思う。

*2:僕から見て

A Hard Day's Nightのコード

ビートルズのハードデイズナイトのイントロのコードがついに分かった!

ビートルズの『A Hard Day's Night』の出だしで鳴るジャ〜ンのコードは永遠の謎とされてきましたが、なんとなんとCBCラジオのランディ・バックマン(Randy Bachman)氏が解読しちゃいましたよ!
http://www.gizmodo.jp/2011/12/post_9763.html

"Mathematics, Physics and A Hard Day’s Night" / Jason I. Brown, Dalhousie University
http://mysite.verizon.net/michael_murray/sitebuildercontent/sitebuilderfiles/a_hard_days_night.pdf
を参考にフーリエ解析の結果からAmplitudeの大きい順にピークを並べると以下のようになる。
ただし、コードはA4 = 440Hzで変換した。

周波数 振幅 コード 周波数 振幅 コード
150.12 0.1751490 D3? 3147.32 0.0293723 G7
2368.18 0.0755327 D7? 438.36 0.0286329 A4
1050.86 0.0687151 C6 3158.58 0.0285631 G7
524.68 0.0680974 C5 174.14 0.0275547 F3
149.37 0.0656018 D3? 787.39 0.0268553 G5?
110.34 0.0600967 A2 2367.43 0.0267098 D7?
1321.08 0.0494908 E6 148.62 0.0264278 D3
2763.76 0.0493617 F7? 2637.65 0.0261839 E7
218.43 0.0448308 A3 145.62 0.0254850 D3
2371.94 0.0436633 D7? 786.64 0.0251928 G5
3148.07 0.0418507 G7 1488.47 0.0241328 F6
175.64 0.0407103 F3 2638.4 0.0237794 E7
195.16 0.0405164 G3 1750.43 0.0234704 A6
1314.32 0.0381900 E6 262.71 0.0234502 C4
174.89 0.0380282 F3 1286.55 0.0231789 D#/E6
1185.97 0.0372155 D6? 589.23 0.0231753 D5?
2359.93 0.0366079 D7 960.78 0.0228509 A#/B5
2372.69 0.0360420 D7? 981.8 0.0224200 B5
3083.52 0.0332062 F7? 1320.33 0.0223535 E6
785.14 0.0323532 G5 2368.93 0.0221358 D7?
588.48 0.0310337 D5 2371.19 0.0212846 D7?
392.57 0.0309716 G4 587.73 0.0206130 D5
261.96 0.0302402 C4 1632.58 0.0205742 G/G#6
299.49 0.0298296 D4? 2754 0.0200010 F7?

一番大きいDはPaulのベースで間違いないと思う。
その次のD7がいきなり問題で、12弦ギターの音だとしてもやや高すぎる。通常のチューニングの場合、12弦ギターの開放弦は下からE2,E3,A2,A3,D3,D4,G3,G4,B3,B3,E4,E4なので、ハーモニクスを用いれば出せないことはないが、この音のみ突出して振幅が大きいのは不可解である。また、D7のピークは表中に全部で6個あって、一つはD6の倍音成分だと推測されるが残りの5個の起源は分からない。
D7は保留して、次のC5,C6を見るにオクターブ離れていること、および振幅がほぼ同じことから、12弦ギターによる音と推測される。続くD3,A2はJohnのDコード由来、またはA2はA3と合わせて12弦ギターの音かもしれない。
以下同様の考察を続けていくに、どうも上の記事は疑わしく思えてくる。
本人(の息子)が言っているのだから信憑性は高いし、実際に耳で聴くに正しく聞こえるのだから、別にそれで良いのだけれど、D7の複数のピークの起源は何かとか、A#でなくてAなのはなぜかとか、何となく腑に落ちない部分が残るように思えて仕方ない。

道具主義的科学観の危険性

  • 科学をめぐる3つの見解。

ポパーは「推論と反駁」の中で、科学の受容形態を以下の三つに分類している。
1,本質主義 :
科学は真理の追求であるという考え方。「全ての物質の初期位置と初速度が所与ならば、宇宙の全様相は計算可能である」みたいな近代理性的発想がこれに当たる。あるいは、現代でも世界を統一的に記述する万物理論が存在すると信じている人々がいて、その人たちの科学観はこれに該当する。

2,実証主義(道具主義的科学観) :
科学は現象を記述/予測する道具にすぎないという考え方。このフレームワークに従うに、自然法則には適応範囲が厳密に定められており、その内側でのみ意味を持つ。また、観測不可能な抽象概念の導入は、現象の簡潔な記述のために必要とされる場合にのみ許され、その解釈は議論の対象にはならない。量子力学を例にとると「波動関数の解釈はどうでもよくて、シュレディンガー方程式を解けば原子スケールでの物質の挙動が求まるということが重要なのだ。」みたいな見方がこれに当たる。

3,第三の見解(漸近的本質主義) :
いわゆるポパー反証可能性による科学の定式化。科学は究極的な真理を語っているわけではないが、実験的反証により前進することが出来るがゆえに、単なる道具以上の存在であるという考え方。「ニュートンからアインシュタインへ、そして量子重力理論へ」みたいに科学理論が漸近的進歩するという見方。

人文系の学者はよく科学者が1の本質主義に陥ってしまっていると批判するが、それは的外れで実際には科学コミュニティのほとんどの人は、2の実証主義に近い科学観を持っている。つまり20世紀以降、人類の科学観は概ね道具主義的科学観に収束しつつある。これは、1に比べて無害だし何かと役に立ちそうだし3はなんだかよく分からないし、何の問題もないように思える。でも、そうではないというのが表題の主張である。

では、具体的に何が問題なのかということについて、ポパーは以下の点を挙げている。
i)階層的説明をするのに、本質主義を仮定する必要はない。
このリストはバークリーの実証主義に対する批判から取ってきたので、現代的な広義の実証主義には必ずしも当てはまらないのだけど、バークリーは万有引力の法則を認めつつも重力や引力の存在を否定していたという立場にいたので、それに対して、「重力が実際に存在するのかどうかは分からないけど取りあえずそういうものが存在すると仮定すると何かと便利」という見解は必ずしも本質主義には当たらないということを述べている。

ii)科学は前進しうる。
道具というのは、まず目的があって、それに対応した有用性の基準が出来て、その基準を最も満たすものが最良ということになるのだけれど、科学の進歩というのは、それとは一線を画した事象である。科学には現実世界という絶対的な対象が存在して、現実世界を対象とした実験によって複数の理論の優劣が絶対的な形で決定可能である。

iii)純粋な観察/現象は存在しない。
ポパーがこれをどういう文脈で述べたのかは忘れてしまったのだけれど、多分、道具それ自体や有用性の前提となる価値観も科学の累積の上に成り立っている以上、そもそも科学を純粋に道具として利用することは不可能だというような主張だったと思う。Opt-geneticsを例にとるに*1そもそもDNAというものの存在が科学の成果物であり、「いかに神経細胞を制御するか」という有用性の基準はそれまでの神経科学/分子生物学/制御工学/量子光学などを基礎とした上で初めて成立する問いであるというようなこと。

  • 3つの疑問点

しかし、上の説明には疑問点が残る。
a)確かに科学は道具以上の存在であるかもしれない。しかし、近似的に道具であると考えることには何の問題もないのでは。
「科学哲学の科学への貢献度より昆虫学の蝶々への貢献度の方が大きい。」というジョークがあって、科学哲学上の問題は科学上の問題とは異なる。個々の細分化された領域では有用性の基準は所与であり、現実には応用技術研究と科学研究の境界は存在しない。加えて、そもそも人々が、特に市井の人たちがどのような科学観を持っているかは、問うに値しない問題に見える。

b)純粋な現象/観察が存在しない以上、純粋な反駁も不可能なのでは。
例えば、最近のニュートリノ実験でニュートリノが光よりも速いという結果が出たにもかかわらず、相対論が否定されたと考える物理学者は(ほとんど)存在しない。ポパーニュートンからアインシュタインパラダイムシフトをその科学哲学の原点としているから反証可能性にこだわるのだろうけれども、実際にはあんなにキレイにパラダイムシフトが成されることはまずない。とくに、生命科学の周辺ではその傾向は顕著で、少なくとも科学の前進はもっと複雑で面倒くさいプロセスなはずである。

c)民主的議論に対し科学的議論が優位性を持つのはなぜか。
これは上の議論からは若干飛躍している。現在、世論は反原発を支持しているものの、その理由の多くは間違った科学認識に基づく原発に対する誤解から成り立っているように見える。正しい科学的知見は、民主的議決に対して優位性を持つと推測されるが、その根拠は曖昧である。漸近的本質主義はその根底をめぐる議論を巧妙に避けているので、この問いに対して上手く答えることが出来ないように思う。

一応の解答は自分の中で考えつつあるのだけれど、眠くなってきたのでまた次回。*2

*1:気がつけば例が物理ばかりなので。

*2:それぞれの問いについて、ポパーも何かしらの議論をしていると思うのだけど、ちょっと調べてみた範囲では見つからなかった。

アメリカの大学生と孤独

from J.T.Cacioppo et al. / International Journal of Psychophysiology 35(2000)
「孤独の科学」読んでて気になったので元論文にあたってみた。

論文ではオハイオ州立大学の2632人の学生に対し、孤独感の有無と生活環境について調査を実地し、そのうちの5%に対し詳細な心理学実験を行いその結果をまとめている。

まず、全体の調査結果にから、孤独感と相関のある要因を調べるに、
ルームメイトの数、取得単位数、学生団体などへの参加率、運動量とは無相関
ルームメイトとの信頼関係と負の相関
不安感や、人前でしゃべることへの恐怖とは正の相関
であったという。

以下、興味深かった部分を引用するに、

"We first examined the hypothesis that individuals who were lonely simply had less social capital to offer than others. By social capital, we mean the resources they bring to a social interaction - their physical attractiveness, intelligence, height, weight, age, sociaeconomic status, or scholastic achievements. Analyses revealed the groups did not differ on any of these variables."

まずはじめに、孤独な人々は純粋により少ない社会資本しか持っていないのだという仮説を検証した。ここでいう社会資本とは社会的な魅力を構成する要素のことで、具体的には身体的魅力、知性、身長、体重、年齢、社会経済的な状況、または、学業成績を指す。分析の結果、孤独感はこれらのいずれとも相関関係にないことが示された。

The social world also emerged as a less rewarding place for lonely individuals. Lonely relative to embedded individuals, reported comparable social desirability motives but had less secure adult romantic attachment styles. Lonely individuals were also characterized by greater anxiety, anger(including anger-in), and shyness, less sociability, less optimism, and poorer social skills, and they expressed stronger fears of negative evaluation. Lonely individuals were no less assertive than embedded individuals in terms of the likelihood of a behavior, but they reported much higher levels of discomfort and anxiety about being assertive."

孤独な人間にとって、社会はあまり有益な場所ではない。孤独な傾向のある人は、そうでない人と同程度の社会的交流への欲求を持っていたが、成熟した人間関係を築けていなかった。また、孤独な人々は大きな不安と怒りを抱えていて、内気で非社交的、悲観的、社会的スキルに欠け、否定的評価を受けることを極度に恐れていた。孤独者は特に独断的な行動様式を持っていなかったが、相手の独断的な行動に対しより強い不快感を示した。

The groups were found to differ on four of these subscales: lonely individuals were less likely to actively cope, seek instrumental support from others, or seek emotional support from others and were more likely to behaviorally disengage than were embedded individuals.

(孤独者とそうでない)グループとは4つの点で異なっていた。孤独な人々は問題への取り組み、他人に物質的な助力を求めること、または精神的な援助を求めることにより消極的であった。また、彼らは相対的に諦めやすかった。

以下、孤独感がいかに認知行動に影響を及ぼすかについての実験とその結果の説明が続いているが、やや専門的な内容なので省略。



いくつか補足/コメント。

  • 調査されているのは孤独感との相関であって、社会的孤立それ自体との相関ではない。これは、疾病への抵抗率の低下などの身体的影響を及ぼすのは、孤独感の有無であって、客観的に見た孤立状況それ自体ではないという先行研究によるようである。
  • 調査対象を大学生としたことについて著者は、人間関係の構築にいそしむ時期であること、各人の他者との交流パターンがほぼ確立されていること、友人関係が比較的に閉じていることの3つを挙げている。ただ、やはり大学生の感じる孤独感とその要因は社会人のそれとはやや離れているし、特に寮というのは特殊な環境なので、一般化は難しいと思う。
  • 孤独感と社会資本の量とに相関がないというのは不思議に思える。これについて論文中では何も言及されていないのだけれど、おそらく個々の構成要素に孤独感と正の相関を持つ面と、負の相関を持つ面の両方があるため、結果的に関係がないように見えるのだと思う。例えば、一般に孤独な人間は時間を持て余していて、かつ一人でコツコツと作業するので得意なので、学問やジムでのトレーニングに積極的に取り組むことが多く、その分学業成績や身体的魅力は高くなる。しかし、孤独に自覚的である場合、勉強やトレーニングへのモチベーションを保つことができず、最終的に中途半端な結果になってしまうことが多い。
  • 論文中にあるように、孤独感は自律安定的で、そこから抜け出すのは難しい。「孤独の科学」の本文中でも以下のように述べられている。

「孤独だと回避を主体とし,なるべく接近はしないという、社会的的な戦略をとりがちだが,これもまた、将来に孤独を招くことになる。孤独感によって引き出されるシニカルな世界観は、疎外感に満ち、他人への信頼感がほとんどなく、それが今度は実際の社会的排除の一因となることが立証されている。」

これは難しい問題で、「孤独の科学」の中で作者の述べているいくつかの解決策*1も個人的には有効だとは思えないし、そもそも汎用的な解決策があるかどうかも分からない。ただリア充の以下の定義を見るに、現代社会における人間関係の変化と孤独の拡大について憂慮すべきであるというのは明瞭である。

ネット上でのリア充の定義は「友達が1人でもいるやつ」と発祥場所である大学生活板において定められている。
リア充」 / Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%85%85

*1:ジュースを買ったときに、自販機の中に10円玉を1枚残して去るとか。

草食系男子と"Beta Male"

一見「草食系」とは無縁に思えるアメリカ社会でも男性の「草食化」は進行しているようで、"Beta Male"というスラングにその傾向が垣間みれる。その差異については後で考察するとして、"Alpha Male/Beta Male"という言葉は概ね「肉食系男子/草食系男子」と対応関係にあるとみなせる。
 "Alpha Male"というのは元々哺乳類(特に霊長類)の群れのリーダーを努めるオスを指す用語で、例えば猿山のボスザルは"Alpha Male"である。これが転じて最近では、イケメン・リア充・肉食系みたいな意味のスラングとなっている。
例えば、Urban Dicitionaryでは、

One of the 10% of males who engages in 90% of the total fucking.
全セックスの90%を行っている上位10%の男性のこと。
http://www.urbandictionary.com/define.php?term=alpha%20male

という直接的な定義が与えられている。
 一方、"Beta Male"の方は、その反対の男を指す造語で、再度Urban Dicitionaryをひも解くに、

1,An unremarkable, careful man who avoids risk and confrontation. Beta males lack the physical presence, charisma and confidence of the Alpha male.
Pete knew he was losing the girl he'd just met at the bar to the guy who bought her a drink, but he was too much of a beta male to do anythigng about it.

顕著なまでにリスクと対立とを回避する男性のこと。Alpha Maleの持つ存在感、カリスマ性、自信が欠如している男性を指す。
用例 : 今会ったばかりの女性に別の男が飲み物を持ってきたのを見てピートは彼女を奪われてしまうだろうと感じた。しかし、彼は重度のBeta Maleであるため何もできなかった。

3, The opposite of Alpha male. In modern society an Alpha male not only requires physical prowess, but also confidence and attitude. The Beta male of modern society usually, only has one of these traits, if any. The Beta male tends to be smart, quiet and unconfrontational. If lucky, beta males can get a hot chick once in her 30's, after she's tired of fucking the Alpha Males, and decides to settle down with a beta male for money and stability.
Alpha Males get everything, Beta Males get the left overs. It's a little thing called "Life"..

Alpha Maleの反対のこと。現代社会ではAlpha Maleには勇猛さだけでなく、自信と積極性とが求められる。一方、Beta Maleにはそれらが欠けている。一般にBeta Maleは頭は良いが、無口で非社交的であることが多い。運が良ければBeta Maleも魅力的な三十代の女性と交際できることもあるが、それは彼女らはAlpha Maleとのセックスに飽きて、金と安定のためにBeta Maleに落ち着くことを選んだためである。
用例 : Alpha Maleは全てを手に入れ、Beta Maleはその残りを漁る。この現象は「人生」と呼ばれている。
http://www.urbandictionary.com/define.php?term=beta+male

 上のBeta Maleの定義を見るに、草食系という言葉との微妙な違いが見えてくると思う。第一に草食系という言葉は女性視点から語られることが多いのに対し、Beta Maleは男性視点からのどちらかと言うと自虐的な呼称であること。また、草食系という言葉では恋愛に対する無関心さに重きが置かれているのに対し、Beta Maleはその消極性で特徴づけられている。

 これらの差異は、部分的には日米のGender Equalityの進行状況の違いから説明できる。
 まず日本の場合、社会全体での男女同権の達成は難航しているものの、家庭内での父権の消滅は80年代以降速やかになされた。その結果、社会進出を妨げられたものの家庭内では権力を手に入れた母親が子育てにおいても主導権を掌握し、育児に父親が関与しなくなり、男児に「マッチョさ」が求められなくなった。この点については、以下のtweetが分かりやすい。

エロの氾濫とか社会的理由もあるにはあるけど、草食系男子が増えたのは、育児を任せっきりにされた母親が、自分好みのがっつかない、女子に寄り添うやさしい男を育てようとしたからよ。父親が育児に関わってる男子、側にいなくても父親の存在が分かる家庭は決して草食系ではないかと。って極論過ぎ?
http://togetter.com/li/192151

 アメリカの場合については推測の域を出ないのだけれど、多分男児に「男らしさ」が求められなくなったというのは共通で、女性の社会進出の進行のために恋愛市場における男性優位性が消滅したというのが相違点だと思う。
 日本でも今後女性の社会的自立が広く達成されていけば、草食系男子は自然淘汰されていくはずである。ただ現状では年金の専業主婦優遇などの法的なインセンティブの歪みがあるので、草食系問題はもう少し長引くのかもしれない。