スマートフォンはなぜ「スマホ」なのか?

「コピペ」という言葉を噛まずに発音できたことがない。
 これには、僕の滑舌が悪いからというのとは別にもうひとつ理由があって、それは「コピペ」という略称が主にネットを通じて広まったものであり、リアルでの発声を目的として作られた略称ではないためである。同様に、ネットスラングおよびその派生語は発音しづらいものが多い。はてサとかリモホとかフォトショなどもそうだし、ggrksやjkに至っては文字というよりも記号に近くて、そもそも発話を通じて認識されることを目的としていない。*1

スマートフォンの略称の「スマホ」がイマイチ読みづらくてしっくり来ないのもこれと同じ理由だと思われる。
 そもそも携帯電話が普及するまでは、コミュニケーションの大部分は電話か対面での音声によるものであり、インターネットを利用した文字のみによる対話は非常に限定的だった。このような状況で、携帯電話が現れてきたとき、その略称はテレビ/ラジオを含む音声ベースでのコミュニケーションの場での流通に適したものでなければならなかった。したがって、「携帯電話」の略称は「携電」ではなく、より発音の自然な「携帯」へと収束したのだと考えられる。

 しかし、携帯電話の登場から一世代を経た現代では、両者の関係は逆転してしまった。純粋に個々人の発語数を調べれば、一部のネット/メール/twitter中毒者を除き、一日にタイプする文字数よりも発話する文字数の方が依然多いだろう。しかし、前記事*2で述べた通り、メディアはインターネットによる文字ベースの情報発信へと移行しつつあり、一日のインプット文字数で考えるに聞く量よりも読む量が多いというのが多数派だろう。特にスマートフォンは、その黎明期においてはビジネスマンやギークなどの文字ベースのコミュニケーションに親和的な層が主な対象だったため、略称の固定化の過程で発話の容易さが重視されなかったのだと推測できる。

 ただ、この説明にはいくつか疑問が残る。まず第一に文字ベースのコミュニケーションでの利用を前提としているならば、そもそも略す必要がないように思える。これは、おそらくtwitterの文字数制限対策やタイプ量の減少などが目的であり、そもそもネットスラングも大半は略称化により生まれたものであるわけで、コミュニケーションの効率を上げるのに略称化は必要なのだろう。もうひとつ、なぜ「スマフォ」でなくて「スマホ」なのか。これは簡単で、語尾が小さいオで終わるのは日本語表記として不自然なためである。事実、語尾に小さいオが付く日本語は「ジョン・健・ヌッツォ」を除いて存在しない。

*1:特に最近、顔文字/記号/省略表現の境界が曖昧になってきているように思われる。

*2:http://d.hatena.ne.jp/Omgyjya/20111012/1318429455

ネットとテレビの逆転の始まり。

いつものようにyoutubeで猫動画を漁ってたら、Up主が以下のようなコメントを述べていた。

テレビ東京にて無断借用されてしまいました。2011年2月21日(月) 夜8時00分〜夜9時54分にやっていた月曜プレミア!「仰天パニックシアター!」という番組です。電話しても担当が不在、不在で逃げられてます こんな対応された方いませんか? 名前は「にゃんにゃあ」 適当だとか言わないで・・・ 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11832565 ニコニコでの投稿を知らず転載された方がいましたので一応載せておきますhttp://www.youtube.com/watch?v=dgNfD0_oUS4

いままでは、youtubeがテレビからコンテンツを無断借用するのが一般的だったのに、最近ではテレビがyoutubeやニコ動から動画をパクって流す例が少なくないらしい。
 僕自身、普段テレビを見る機会/機械がないので実情は分からないが、この前実家に帰って久しぶりにテレビを見ていたら、ちょっと前にネットで話題になった「変な格好で歩くネコ」*1の動画が番宣のCMに使われていて、そのエンカウント率の高さを考えるに、稀な事象というわけでもないのだろう。

 テレビから無断借用されたコンテンツがyoutube上にあふれている現状を考えるに、テレビ局の著作権侵害を非難することには倫理的なためらいがあるが、国の認可の元に独占的に放送事業を担っている各テレビ局には一般の個々人よりも強い規範性が求められるべきであり、テレビのネットからの無断借用の実態は今後きちんと調査していく必要がある。また、テレビ局が新聞各社のように消滅しないのは独占事業であることだけでなく、優秀なコンテンツ屋を抱えていることが大きいわけで、もしyoutubeからのコピーで番組が製作されているのであれば、それは自殺行為に他ならない。
 ネットがマスメディアの機能も担いうること、および一部若者の間で実際メディアとして利用されている現状を踏まえるに、一連の逆流現象はマスレベルでのネットとテレビの逆転は始まりを意味しているのではないかと思われる。

DQNネームは本当にDQNか。

昔親に自分の名前の由来を聞いて「流行ってたから。」との返答を得た僕としては、最近のDQNネームの風潮も出来る限り擁護したい。
 DQNネームの風潮の合理的説明として一つ考えられるのは、審美眼が変わりつつあるということである。今の基準に照らし合わしてみれば、門左衛門や五右衛門は立派なDQNネームだが、江戸時代にはそうでなかったはずで、名前の流行は変わる。それは日本に限ったことではなくて、英語圏でも例えばRobertの短縮形のBobや、Williamの短縮型のBillが時代を下るにつれ正式な名前として使われるようになった。
 最近のDQNネームの風潮も部分的には、この流行の遷移で説明できるように思える。ただ、一つ問題なのは、名前の流行が定期的に遷移していくのであれば、DQNネーム現象は恒常的な存在であるはずだという点である。「最近の若いものは、・・・」というセリフが平安時代和泉式部日記にも見いだせるというのは有名な話で、世代交代は恒常的現象であるが故、いつの時代も若者は老人から非難されてきた。しかし、DQNネーム現象はこれとは異なる。DQNネームという言葉が使われるようになったのはここ5年ぐらいであり、それ以前に子どもの命名に対する批判があったという話は、聞いたことがない。したがって、一連の風潮は名前の流行の定期的な遷移からでは説明できない。
 ここで忘れてはならない重要な点は、流行の遷移の間隔は一定ではないということである。ほとんどの流行の周期はテクノロジーの発展に伴い短くなりつつある。それは、企業の平均寿命や、音楽のヒットチャートの遷移*1を見れば分かる。つまり、流行の遷移の周期が今まで十分に長かったものが、ある臨界点を超えて短くなったことで、人々に違和感を与えるようになってしまったというのが、一つ妥当な説明となりうる。

 さて、この仮説を実際に検証したい。名前の流行に関してはあまり良い統計指標が見当たらなかったので、「明治安田生命名前ランキング*2」を用いることにした。これは、過去100年に流行した名前のベストテンを各年についてまとめたもので、母数がかなり少ないがおおまかな遷移を見るには十分であろう。
上のランキングの男性部門について、n年相関をまとめたのが下の図である。(n = 3,5,7,9,11)として、各年とその(n-1,n,n-1)年前のランキングとの一致度を計算し平均した。*3また、得票数の差が分からないので、順位は考慮に入れなかった。グラフに示されている通り分散は大きいものの相関係数は年次を下るにつれ全般的に下降トレンドを持っている。つまり、最近の方が昔に比べて名前ランキングの移り変わりが早い。

 また、興味深いことに第二次世界大戦後から2000年頃までの遷移については概ね景気循環と対応している。60年代の景気拡大期には相関が小さくなっていくものの、1973年のオイルショックを境に相関は再び上昇する。1979年の第二次オイルショック以後、再び景気は回復し、90年のバブル崩壊を期に再度上昇する。一般に好況時には人々は革新的で、出生率も回復する一方、不況時には保守化する傾向があるので、名前の流行の遷移は景気循環に対応していると見て良いだろう。

 もうひとつ、次のグラフは最初に相関がr以下(r = 0.3,0.5,0.7)になるのは何年前かを各年についてまとめたものである。グラフを見るに48年と56年に劇的な変化が見られる。48年には相関が0.5以下になるのにそれまで25年かかっていたのが3年になっている。また、56年には同様に相関が0.7以下になるのにそれまで40年近くかかっていたのが12年となっている。48-3 = 45, 56-12=44で分かる通り、これは終戦の影響で、実際にもとのランキングを見るに戦前と戦後で名前の流行がガラリと変わっている。終戦が人々にもたらした影響の大きさはこのことからも推し量ることができる。

 なお、このグラフでも戦後のr=0.3のグラフにゆるやかな減少トレンドが見られ、戦後の変移については周期が加速しているという仮説と矛盾はしていない。

確かに人々がDQNネームとして問題視しているのは主に、このランキングの最下位タイに位置するような流行の変移では説明できない名前かもしれない。でも、世界は加速的に変化しているわけで、少なくとも最近の子どもの名前がどれもDQNネームに見えるのであれば、それは自分の持つ名前に対する審美眼の方を疑うべきであると思う。

*1:テクノロジーが発展しすぎて機能しなくなったしまった例。

*2:http://www.meijiyasuda.co.jp/profile/etc/ranking/year_men/

*3:もう二度と日本語を含むデータは扱いたくない。

g因子の復権

I.J.Deary, The neuroscience of human intelligence differences. Nature reviews Neuroscience (2010) より。
内容を簡単にまとめるに、

  • intelligenceは、Reasoning/Spatial ability/Memory/Processing Speed/Vocabularyの5つの構成要素に分けられると考えられている。
  • 5つの要素は互いに正の相関を持つ。(ある要素について平均より高い成績を取った人は、別の要素についても平均より高い成績を取ることが多い。逆もまたしかり。)この正の相関の存在は、general intelligence(g因子)の存在を示唆する。g因子はtrial variabilityが低く(何度テストしても大体同じ)、学業成績・社会的地位とも相関がある。
  • 個々の能力は、g因子とそれ以外の因子の足しあわせで説明できる。

 例えば四則混合算を実行する能力は、g因子/(一般的な)数学的能力/計算能力/訓練の四つの因子で説明できる。それぞれの因子の占める割合は、g因子 : 40%,数学的能力 : 20-50%, 計算能力 : 数%, 訓練 : 残りと推定される。(例えば、g因子/数学的能力/計算能力の3つが同じ人たちの間の点数差と、g因子/数学的能力/訓練の3つが同じ人たちの間の点数差とを比較すれば、訓練と計算能力のどちらが結果により大きな影響を与えているかが分かる。)

  • g因子は遺伝的に継承される。(一卵性双生児の研究より。)

 "Estimates of how much of the total variance in general intelligence can be attributed to genetic influences range from 30 to 80%" (general intelligenceの30-80%は、遺伝的影響で説明できる。)

  • g因子をneuroscienceの見地から説明できないか。

 脳の大まかな構造は遺伝的であるが、intelligenceと関連する遺伝子は依然見つかっていない。intelligenceはそもそも特定の遺伝子で説明できるものではないかもしれない。ただ、知能障害と関連のある遺伝子は既に300個ほど同定されている。

  • 脳の大きさとg因子とには弱い相関(相関係数 = 0.2-0.3)が存在。また、white matter integrity(白質の完全性?)とg因子の間には相関が存在。一般にg因子と高い相関を持つ指標は、性別により異なる。
  • intelligenceにはneural efficiencyが重要。


さて、これについていくつかコメント。

  • g因子が存在するということはどうも否定し難いように見える。けれども、g因子は純粋に社会的な存在であって、neuroscienceにより基礎づけられないという可能性はある。(結局、intelligenceの構成要素間の相関は、社会が何をintelligenceと見なしているかという偏向性を表しているに過ぎない。)例えば、社会のintelligenceの基準に合致した両親の子どもは、遺伝的影響によりその基準を満たす可能性が高い。(少なくとも30%程度は遺伝的影響である。)ただ、これは社会のintelligenceの基準が静的な場合のみ成り立つ。
  • 重要なのはintelligenceの差の存在を否定することではなく、優生学的思想の芽を確実に摘んでいくことにある。いずれにしろ、今の認知脳科学の技術水準は限定的なので、g因子に神経科学的基礎付けが与えられることはしばらく(少なくとも向こう20年は)ないだろう。
  • 上述の脳の大きさと知能との関係はグールドの「人間の測り間違い」では否定されている。ただ、グールドの批判は優生学の時代の稚拙な測定技術による実験結果へ向けられたものであって、fMRIなどを駆使した最近の研究を否定するものではない。(優生学の時代に主張された強い相関については最近の測定結果も否定的である。)
  • 一つ気になる点としては、intelligenceのCV(変動係数)は、どうなっているのだろうか。もちろん、測定基準に依るのだけれど、あまり大きくはないだろう。
  • 仮に今後intelligenceへの遺伝的影響が80%であると示されたらどうすべきなのだろう。

 現代社会はgeneral intelligenceよりもspecialized skillを重視しており、この傾向が続けば(かつCVが大きくないことが分かれば)特に心配はないはず。ただ、現状ではspecialized skillを必要とする仕事は十分な雇用規模を持っていないし、必要とされるspecialized skillが目まぐるしく変わるのであれば、結局general intelligence型社会になってしまう。しかし、一部の知能障害を除けば分布は連続であり、どこかで線引きをすることは出来ない。社会が弱い紐帯を含む個々人間の複雑なネットワークである限りは、自由や平等は守られるはずである。

イグアノドンの角

「マンテルは自分が見つけた化石をイグアノドンの角だと思っていた。」という話が確か小学校の教科書に載っていて、なんだってそんな大胆な間違いをしたんだろうと思っていたのが、なぜかさっきふと思い出されて、気になったので調べてみた。
 まず、小学生時代の僕が読んだのは以下のような内容だった。

一番最初にイグアノドンの骨を発掘したギデオン・マンテルは、その骨を動物学者に送った。それを見た学者は、「犀の角と同じもの」と回答した。それは本当はイグアノドンの爪だったのだが、この回答のため、長い間、イグアノドンには鼻の先に角がついていると考えられていたというのは、恐竜好きの人なら誰もが知っているエピソードである。
http://www.geocities.jp/pluto_naoko/july24.html

 結論から言うに、この話はいくつかの事実が入り交じって出来たもので、デタラメである。
正確な話は年代順に並べると以下のようになる。
1822年初旬 : マンテルの妻がサセックスの森の中で骨の化石を見つける。*1
1822年五月 : マンテルは化石をロンドン地質学会に提出する。このとき、古生物学者のウィリアム・バックランドは、化石は魚の歯かサイの切歯であると主張した。
1823年 : イギリスの地質学者チャールズ・ライエルが、当時の古生物学の権威であったフランスの博物学者ジョルジュ・キュヴィエに化石を見せると、彼もまた同様に化石はサイの歯だとみなした。
1824年三月 : バックランドがマンテルのコレクションを見に訪れる。そのとき、歯の化石については、大型の爬虫類のものであるかもしれないが、草食動物のものではないとの見識を示した。*2
1824年六月 : マンテルは化石を再度キュヴィエに送る。キュヴィエは、化石は爬虫類のものであり、特に極めて大きい草食動物のものである可能性が高いと述べた。
1824年九月 : 化石と現代の爬虫類との類似を調べるために、マンテルは王立外科医師会の博物館を訪れる。そこで、博物館のキュレーターであったサミュエル・スタッチベリーはマンテルの化石がイグアナの歯とよく似ていることを発見する。
1825年二月 : マンテルはロンドン地質学会にて一連の発見について発表する。この化石は、イグアナの20倍程度の大きさの巨大爬虫類のものであると推定され、イグアノドン(「イグアナの歯」の意味)と命名される。
1834年 : イグアノドンのものと推定されるいくつかの化石群が、ケントにて発見される。マンテルはこの一連の化石を元にイグアノドンの化石の復元を試みる。そのときの骨格図が下のリンクに示したもので、鼻の上の巨大な角が特徴的である。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Mantell%27s_Iguanodon_restoration.jpg
1878年 : ベルギーにてイグアノドンのほぼ完全な化石が発見され、マンテルが角だと同定した骨は前足の親指のものだったと判明する。

 つまり、そもそもマンテルは自分の発見した化石が歯であると初めから認識していて、イグアノドンについて発表した後に見つかった化石群のうちの一つを角だと誤認したにすぎない。さらに、マンテルを擁護するに、イグアノドンの前足の親指は非常に特徴的な形状と大きさをしていて、それがどのような機能を担っていたかは、現在でも正確には分かっていない。
 ただ、現在のイグアナにも角はないわけで、なぜ角だと考えたのだろうというのはやはり疑問である。
 ひとつ考えられるのはマンモスの影響である。マンテルが化石について相談を持ちかけたフランスの博物学者ジョルジュ・キュヴィエはマンモスの命名者として有名であり、素人博物学者のマンテルはその強い影響下にあったと推測できる。マンモスと言えばその巨大な牙が特徴であり、時代は違うと言えども古生物であるからには巨大な牙や角を持つべきとの見解に彼が至ったとしても不思議ではない。
 あるいは、最初バックランドにもキュヴィエにサイだと言われたことが頭に残っていて、何となくサイっぽく書いてしまったのかもしれない。真相は分からないし、そもそも特に深い理由など無かったのかもしれない。

 もうひとつ、なぜ冒頭に示したようなイグアノドンとマンテルをめぐる誤謬が市民権を得るようになったのか。これには、リチャード・オーウェンという古生物学者が関わっているらしい。

オーウェンは、意地が悪く不誠実で憎むべき人物として描かれることがある。実際、あるオックスフォード大学教授はオーウェンを「とんでもない嘘つきだ。彼は神と悪意のために嘘をついた」として言い表した。オーウェンはイグアノドンの発見の功績は自分とジョルジュ・キュヴィエにあると広く主張したが、その恐竜の本来の発見者であるギデオン・マンテルの功績は完全に除外されていた。そしてオーウェンが実際には自分の物ではない発見を故意に自分の物だと主張したのはこれが初めてでも、また最後でもなかった。(中略)
 マンテルが事故により体に障害が残ったとき、オーウェンはその機会を逃さず、既にマンテルが名付けた数種の恐竜に再命名し、さらに厚かましくもそれは自分の功績だと主張した。そしてその後、ついにマンテルが自殺したときに書かれたある追悼記事は、マンテルを言及するほどの論文を書いていない二流の科学者以上の者ではないとあざけっていた。その追悼記事には筆者署名が無かったが、地元の地質学者全員がほとんど例外なくその追悼記事はオーウェンの筆だと考えていた。オーウェンは最終的に剽窃の廉で王立協会の動物学委員会から追放されている。
リチャード・オーウェン / ウィキペディア

 オーウェンは王室とのつながりもあり、マンテルの死後も当時の科学界に強い影響力を持っていたため、マンテルの誤謬を誇張した形で流布したのだと容易に類推できる。
 えてして当時の疑問はほぼ解決されたように思う。
参考:
http://en.wikipedia.org/wiki/Iguanodon
http://en.wikipedia.org/wiki/Gideon_Mantell
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Buckland
http://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Cuvier

*1:マンテル自身が見つけたという説もある。

*2:バックランドはこの年の初めに、メガロザウルスについての論文を著しており、メガロザウルスは世界で最初に同定された恐竜となった。

渋谷から考える。(2)

ここ5年くらいの変移の傾向について。

コンテンツ屋がつぶれて洋服屋になるパターン。これは主にAmazonに代表されるネットショッピングの台頭によると考えられる。本はgoogleブックスで試読してAmazonで買えば良いし、音楽はyoutubeで試聴してiTunesで買った方が、わざわざ店頭に足を運ぶよりも便利で安い。家電についても実店舗で説明を聞いてネットで買うというのが主流になりつつある。一方、洋服はそうはいかない。相当買いなれていない限り、ネットで画像を見ただけでは、実際に着た時のシルエットやフィット感、素材の違いによる着心地の良し悪しや、ヘビロテしているジーンズとの併用の可否、髪形やメガネのフレームとの相性なんかはよく分からない。
 有機高分子の科学の発展の目覚ましさを見るに、近い将来、洋服も何かしらの形で電子化されるだろうし、そうなれば現存の洋服屋も本屋やCD屋と同様に衰退の道をたどるだろう。ただ、そうした技術は少なくとも実用化までに20年、普及にもう20年程度かかるだろうから、しばらくの間は渋谷のアパレル関係店舗は全体としては安泰だと思われる。

単に僕が人のいないファーストフードが好きだというだけで、わざわざ潰れそうなところばかりに通っていたのかもしれない。ただ、西新宿でも去年だけで居酒屋が10店ぐらい新規オープンしていて、それも刺身や鶏料理の美味しい感じの店が多くて、もしかしたら何かトレンドがあるのかもしれない。
 まず西新宿の事例を元に考えるに、マスコミが騒いでいるほどには、現代人は酒を飲まないわけではないのだろう。「忙しすぎて酔っぱらっている暇など無い。」というのはほんの一握りで、それ以外は飲酒文化を享受しているというのは、実感と一致している。そこで、渋谷のファーストフードから飲食店への流れというのは、単純に渋谷の利用者層の高齢化を意味しているのではないだろうか。では若者はどこにいるのかと聞かれれば僕もよく分からないのだけれど、多分そういう問い自体がナンセンスなのだと思う。

  • 文化会館 -> ヒカリエ

渋谷文化会館跡地に来春オープンするヒカリエにはプラネタリウムがないらしい。文化会館のプラネタリウムと言えば、かつては一つの渋谷の象徴だった。
 矢作俊彦は、1998年頃の渋谷を、1968年以来30年振りに日本に帰還した主人公の視点から以下のように描いている。

東口に出た。人はいくらか少なくなった。大きな新聞スタンドの向こうで、地下鉄の高架線が、バスターミナルの上空を横切っていた。ガラス張りの連絡橋がそのすぐ下に横たわっていた。連絡橋は、東横線の駅といくつもの映画館が入ったビルを結んでいた。ビルの屋上には、プラネタリウムのドーム屋根が銀色に輝いていた。どれも、思い出よりずっとちんまりしていた。決して見すぼらしくはなかった。見すぼらしいのは、むしろ周囲ににょきにょきと丈を競ったビルだった。高いばかりでやせ細ったビルは、街を大きくしているのではなく、ただ空を狭くしているだけだった。
「ららら科學の子」/矢作俊彦

 引用は一段落だけに留めておくが、「ららら科學の子」の渋谷や世田谷の描写は素晴らしい。作中の日本の社会的状況の描き方はステレオタイプで退屈だが、街の描写は生き生きとしている。
 1998年頃とはかなり変わってしまった現在の渋谷の街を誰かがきちんと描写すべきであると思うし、次記事以降ではそれに挑戦したいと思う。

渋谷から考える。(1)

昨日久しぶりに渋谷に踊りに行った帰りに道玄坂を下って駅について電車を待っているとき、何か違和感があって、そういえば道玄坂を下る途中で一度も風俗のキャッチに声をかけられなかったことに気がついた。以前なら、道の両端にいかにもなおっさんが立ってて、「お兄ちゃん、どう?」と話しかけてくるのを上手くかわしながら駅に向かう必要があったはずなのに、そういう風貌のおっさんも一人も見かけなかった。
 三連休の中日だったから居なかっただけで、金曜の夜から土曜の朝にかけては今でも普通にいるのかもしれない。それに、あの手のキャッチはしつこくて迷惑だったから、警察が規制をかけたならそれは良いことだと思う。でも、なんだか、本当に渋谷が浄化されつつあるのだと感じてしまった。
 最近はクラブの規制も厳しいようで、この前春先に行ったときには花粉症の薬をエントランスで没収されてしまった。Clubbing経験のある人なら誰でも分かると思うのだけど、都内の大箱は基本的に普通に街で見かける若者しかいなくて*1、とてもじゃないけど薬物汚染の温床となるような場所ではない。Agehaなんかは、元々フロア内禁煙だったのが、最近はフロア内酒類持ち込み禁止になったようで、禁酒禁煙の文科省推薦レジャー施設になりつつある。*2

渋谷センター街「バスケ通り」に改名 「怖い街」返上へ
若者文化の発信地、東京・渋谷センター街の商店街が、JR渋谷駅前の目抜き通りに「バスケットボールストリート」(通称・バスケ通り)と名付けることになった。さわやかなスポーツの名を付けて、「怖い街」というイメージを改めたい、というねらいだ。
http://www.asahi.com/national/update/0918/TKY201109180263.html

 このニュースに象徴されるように、渋谷は「陥落」してしまった。僕が中学生の頃に見た白昼に複数の男が殴り合いをしているセンター街はもう二度と見ることはないだろう。しかし、一方で街は変化するものであり僕らの懐古主義は尊重されるべきでないというのも事実である。
 渋谷の過去現在未来については改めてもう少し書きたい。

*1:強いて言うならば、外国人観光客が多い。

*2:そのうち、ディズニーリゾートに吸収されるんじゃないんだろうか。