道具主義的科学観の危険性

  • 科学をめぐる3つの見解。

ポパーは「推論と反駁」の中で、科学の受容形態を以下の三つに分類している。
1,本質主義 :
科学は真理の追求であるという考え方。「全ての物質の初期位置と初速度が所与ならば、宇宙の全様相は計算可能である」みたいな近代理性的発想がこれに当たる。あるいは、現代でも世界を統一的に記述する万物理論が存在すると信じている人々がいて、その人たちの科学観はこれに該当する。

2,実証主義(道具主義的科学観) :
科学は現象を記述/予測する道具にすぎないという考え方。このフレームワークに従うに、自然法則には適応範囲が厳密に定められており、その内側でのみ意味を持つ。また、観測不可能な抽象概念の導入は、現象の簡潔な記述のために必要とされる場合にのみ許され、その解釈は議論の対象にはならない。量子力学を例にとると「波動関数の解釈はどうでもよくて、シュレディンガー方程式を解けば原子スケールでの物質の挙動が求まるということが重要なのだ。」みたいな見方がこれに当たる。

3,第三の見解(漸近的本質主義) :
いわゆるポパー反証可能性による科学の定式化。科学は究極的な真理を語っているわけではないが、実験的反証により前進することが出来るがゆえに、単なる道具以上の存在であるという考え方。「ニュートンからアインシュタインへ、そして量子重力理論へ」みたいに科学理論が漸近的進歩するという見方。

人文系の学者はよく科学者が1の本質主義に陥ってしまっていると批判するが、それは的外れで実際には科学コミュニティのほとんどの人は、2の実証主義に近い科学観を持っている。つまり20世紀以降、人類の科学観は概ね道具主義的科学観に収束しつつある。これは、1に比べて無害だし何かと役に立ちそうだし3はなんだかよく分からないし、何の問題もないように思える。でも、そうではないというのが表題の主張である。

では、具体的に何が問題なのかということについて、ポパーは以下の点を挙げている。
i)階層的説明をするのに、本質主義を仮定する必要はない。
このリストはバークリーの実証主義に対する批判から取ってきたので、現代的な広義の実証主義には必ずしも当てはまらないのだけど、バークリーは万有引力の法則を認めつつも重力や引力の存在を否定していたという立場にいたので、それに対して、「重力が実際に存在するのかどうかは分からないけど取りあえずそういうものが存在すると仮定すると何かと便利」という見解は必ずしも本質主義には当たらないということを述べている。

ii)科学は前進しうる。
道具というのは、まず目的があって、それに対応した有用性の基準が出来て、その基準を最も満たすものが最良ということになるのだけれど、科学の進歩というのは、それとは一線を画した事象である。科学には現実世界という絶対的な対象が存在して、現実世界を対象とした実験によって複数の理論の優劣が絶対的な形で決定可能である。

iii)純粋な観察/現象は存在しない。
ポパーがこれをどういう文脈で述べたのかは忘れてしまったのだけれど、多分、道具それ自体や有用性の前提となる価値観も科学の累積の上に成り立っている以上、そもそも科学を純粋に道具として利用することは不可能だというような主張だったと思う。Opt-geneticsを例にとるに*1そもそもDNAというものの存在が科学の成果物であり、「いかに神経細胞を制御するか」という有用性の基準はそれまでの神経科学/分子生物学/制御工学/量子光学などを基礎とした上で初めて成立する問いであるというようなこと。

  • 3つの疑問点

しかし、上の説明には疑問点が残る。
a)確かに科学は道具以上の存在であるかもしれない。しかし、近似的に道具であると考えることには何の問題もないのでは。
「科学哲学の科学への貢献度より昆虫学の蝶々への貢献度の方が大きい。」というジョークがあって、科学哲学上の問題は科学上の問題とは異なる。個々の細分化された領域では有用性の基準は所与であり、現実には応用技術研究と科学研究の境界は存在しない。加えて、そもそも人々が、特に市井の人たちがどのような科学観を持っているかは、問うに値しない問題に見える。

b)純粋な現象/観察が存在しない以上、純粋な反駁も不可能なのでは。
例えば、最近のニュートリノ実験でニュートリノが光よりも速いという結果が出たにもかかわらず、相対論が否定されたと考える物理学者は(ほとんど)存在しない。ポパーニュートンからアインシュタインパラダイムシフトをその科学哲学の原点としているから反証可能性にこだわるのだろうけれども、実際にはあんなにキレイにパラダイムシフトが成されることはまずない。とくに、生命科学の周辺ではその傾向は顕著で、少なくとも科学の前進はもっと複雑で面倒くさいプロセスなはずである。

c)民主的議論に対し科学的議論が優位性を持つのはなぜか。
これは上の議論からは若干飛躍している。現在、世論は反原発を支持しているものの、その理由の多くは間違った科学認識に基づく原発に対する誤解から成り立っているように見える。正しい科学的知見は、民主的議決に対して優位性を持つと推測されるが、その根拠は曖昧である。漸近的本質主義はその根底をめぐる議論を巧妙に避けているので、この問いに対して上手く答えることが出来ないように思う。

一応の解答は自分の中で考えつつあるのだけれど、眠くなってきたのでまた次回。*2

*1:気がつけば例が物理ばかりなので。

*2:それぞれの問いについて、ポパーも何かしらの議論をしていると思うのだけど、ちょっと調べてみた範囲では見つからなかった。